昭和42年03月12日 朝の御理解

 難しい試験を受ける為に、一生懸命勉強を致しておりますと、それ以下のみやすい試験がありましても、それが問題がないくらいにみやすう出来ます。ですから、難しい難関と言われるような試験をパス出来るだけの勉強をしとかなければならないように、信心も同しこと。どのようなお試しがあっても、びくともせんというだけの信心修行が必要ですね。今朝からお夢の中にちょうどこの頃。
 教師の検定試験のあった時の様な試験を受けておるんです。ところがそれが去年、学院の試験がございましたですね。一年前に、学院に入る為の試験がある。その時の程度の試験なんです。ですから、もう見易い、見易い。そして何回も何回も繰り返して読んでは、間違いない。これは私も百点だなと思うて、ただもう試験という感じがしないんですね。あんまり見易いですから。と。
 言うて一年前の時には、やはり難しい問題だったんです。そういうようなお夢を頂いて、今朝の御理解を頂いておるわけですけども。ですから、もう本当にわたしども、この前の検定何かの場合には、もう本部に、それを専門に勉強しておる先生でも、これを全部通るちいうことは難しかと、試験官が言うておりました。試験間題を作った先生方だけなら出来様けれども。
 他の先生じゃ、これが出来るという事は不可能だと思うほどに難しいですけれども。まあ一生懸命頑張って下さいよと言うように、試験官が、いつの場合でも、それを申しました。なるほど難しかったです。まあその事は、私共としても、お繰り合わせ頂いとりましたから、おかげを頂いて参りましたけれども、そういう言わば、私にとっては難しい試験を、受けておった訳でございますから。
 一年前に受けた学院入学程度の試験なら、もう見易い見易いものでありましたように、お互いの一生生活の上にです神様は何時どのような手をもって試験を下さるか分からんのでございます。ですからここん所をひとつよく心に掛けておかなければいけません。信心に身が入ってくると神様のお試しがありますぞと。これは教祖の神様のご晩年の頃は参ってくる信者一人一人にその事を何時も仰ったと言う事でございますね。
 信心に身が入ってくると。信心が少し分かってくると。信心ちゃ有り難いもんだなぁと、その有り難い物がが頂いてくるようになると、本当に分かったかと、本当に有り難いかということを神様は試されるんです。用心しなされよと仰ったそうです。用心が必要なんです。ですから私共は信心さして頂いておって、どの様な事が起こって来てからも、これから先信心して。
 どのようなことが起こってきても驚いてはならんぞと仰るほどだけの信心を頂いておらなければならないという事。ところが、ここに一つ、問題があるんです。まあこれは、例え話の、まぁ笑い話的なものでございますけれども。ある大学の難しい試験にですね。イロハニホヘトを書けという、あれが出たんだそうです。そりゃもう難しい問題ならですね。見易う、いわば、出来る人でも。
 ええとイロハニホヘトちゃ小学校の時習うたっじゃけど、あらどげんじゃったろうち言うて、間違いておった人があったということでございます。あんまり見易い試験はです。あまりにうっかりして、勉強しないところにです迂闊にして、もう本当に通らないというのは、こんな惜しいことはないですものね。信心の試験でもそうです。もうこんくらいのことは分かってる。
 ばってん、失敗しておると言ったようなのは、見易い問題に、言わば、不合格だったわけなんですよね。ですから、そこんところを一つ分からなければいけんのじゃないかと、神様が仰います。いわゆる、用心しなけれぱいけないのですね。これは別ですけれども、先日、ああして、ご造営の方が見事に、段々、出来て参ります。みんなが、咋日も、高橋さんのところの、お父さん達が見えて、あちらの方。
 御造営の現場を見せて頂きたいとこう言われる。もうそれこそ、外観から、あすこを通るたんびに何回か見たんですけども、中に入って見るの初めて。なんと行き届いたお建築であろうかと。見事さに、いわば目を見張る、いわゆる驚嘆、いわゆるびっくりして、いわゆる驚異の目を見張ってのお話でございます。そういう時にです。ややもするとです、ちょっとその調子に乗るんですね。
 いわゆる自慢げが出るんですね。見易いことのなんですけれども、自分の力でばし建てたように、自慢げが出たんでは、私は、危ないと思いますから、そういう時には、いつも神様にですね。どういう様な心持ちで、この人をご案内したらいいだろうかと。その人、その人によって違うんですよね。そのことを、私、神様に出かけに、今からそちらを見に参りますから。
 どういう心掛けで、おかげを蒙りましたら宜しゅうございましょうかと言うてあの、お伺いさして頂いたら、昔は、今は履きませんけれども、高木履という、高木履て、日和ぼくりですね。それを、歯の欠げておるところを頂くんですよ。ははぁなるほど、この生き方で行きゃ間違いないなあと、私は思うたんです。例えば、道を歩きよって、歯が半分欠げるような事がございますはね。
 そういう時には、歯が欠げておると思うからです、足元に用心致します。ですから、コケないのですけれども。歯の欠げておる事を迂閣にしておると、ひっくり返ってしまわなければならんとですよ。そうゆう心掛けなんです。今朝から頂いとりましたから、そんな気持ちで、応対もさせて頂くんですね。いわゆる謙虚に、又、実際は、こう、中から、それを思うておるのでございますけれども。
 ちょっとこう調子に乗せられると、はぁこれがあーたち言うてから、自慢しゅうごつなってくる訳なんですよ。ですから、そういう時でも、いわば、日和下駄の歯の欠けた下駄でも履いておるような気持ちで、おかげを蒙って参りましたら、足元のところに用心をする。こけんですむおかげを受けられる訳なんです。皆さん、日々をです。いわば、日和ぼくりの歯の欠げておる下駄を履いておるような心持ちでです。
 日々を過ごされたら、用心してお出でられたら、いわば、見易い、これぐらいの事なら出来る、分かる、試験間題が出てもです、見やすう出来て行く。しかも、間違ってはいないかなと、何回も何回も、検討するだけのゆとり、余裕というものが出来てくると思うのです。皆さん大事なことなんですよ、本当に。皆さんが、有り難いとか、もうそれくらいなことは分かっておるという事がです。
 分かっておることが、往々にして落第点を取っておったり。咋日も、この椛目の部落の方達の、別れのお招きがございましたので、総代さん達ほか、何人かの方達が、お相伴で来て頂きました。ところが、あなた、お相伴の方が酔っ払ってしもうてから、かえってその、お客さんにお粗末ご無礼な事になる様なことが、ちょっとあったんですよ。そりゃ勿論、お酒の出来る人をお相伴に雇うておりますけどもです。
 好きだから仕方がないと言ったようなもののです。自分自身が酔っ払ろうてしもうてから、お客さんに無礼を言うたり、働く様な事では、もうこれは値打無しです。そのくらいのことは、実を言うたら、椛目の総代教師達であるなら、分かっておらなければならない筈なんです。信心のない人達ばっかりの中に入って、どう信心のあるものがあらなければならないかと言う風な事は。
 充分に分かっておらなければならない人達が、そういう失敗をしてます。これなんかは迂閤なんです。なるほど、信心してござる人達は、信者さん方は違うと。例えば、相手の人達が酔っ払らわれてもです。なるほど、違うなと、思われ、言われるくらいなものがです、日頃、身についておらなけれぱ駄目です。そりゃ、信心のなか方達ばっかりですから、歌うこともよかろう、踊ることもよかろう。
 けどもです肝心なところを、私は言わば自分が酔っ払らって、間違うようなことがあってはです。あん奴どもは信心なするけれどもと言うことになりますと、どういう事になりますか。これは迂闇にしておって、出来ることが出来てないことじゃなかろうかと、私は思うのですよ。これからも、御造営の事に限らずに、大変色々なことがあちらの方で、信心のない方達と接しなければならないことが幾らもございましょう。
 お互いが心しなければならないこと。そういうことがです。私は迂闇な試験間題、迂闇にしておるために、見易い試験問題で落第するようなことでは、相いすまんことだと思うのです。今朝から、私、そういう様なお夢を頂きましてね。なるほど、難しい試験を一遍受けさせて頂いておると、後は見易いんだと。見易いからと言うて、なめてはならん。迂闊にしておってはならんと。
 いや、うっかりが、いわば、取り返しのつかない失敗になったり、落第をせにゃならないような事になってしまうのであるから、常に、日頃に、私共はです、足元に、欠げた日和ぼくりでも履いておるような心持ちで、日々を過ごさせて頂いたら、難しい問題も、どういう問題があっても、どっこいと受けれる力と同時にです。見易い間題は、尚更、ゆとりをもって受けて行けれるおかげを受けられると思いますすね。
   どうぞ。